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第45回 横たわる屍を踏み越す事業戦略が許されるというのだろうか

2015/05/11

ホームヘルパー2級養成講座が介護職員初任者研修に切り替わる年に、僕は登別市の職業訓練校で10年間以上務めてきた訪問介護員の養成講座講師を退いた。平日の日中に、仕事の合間を縫って講師を務めることが、業務の都合上難しくなってきたことが理由である。

しかし現在、初任者研修の実施状況を聴くと、なかなか受講者が集まらず開催できないことも多いそうだ。これは当市だけの問題ではなく、全国各地で訪問介護員となる基礎資格である、初任者研修受講者が減ってきている。それは由々しき問題だと思う。このままでは「そしてヘルパーはいなくなった。」という状態になりかねない。

訪問介護は独特の難しさがあると思う。施設サービスのように決められた環境、慣れた場所で支援行為を行うわけではなく、利用者の自宅という、それぞれの個性の存在する場所で支援行為を行わねばならず、身体介護を行う場合でも、限られた条件の制約を受けざるを得ないこともあるだろう。同居する家族がいる場合には、その人たちの暮らしとプライバシーへの配慮も必要になろう。しかし訪問介護員の待遇は、総じて介護施設の介護職員より良くないと言われている。雇用形態も常勤ではなく、登録ヘルパーとしてパート勤務が多いようだ。パートを望む人が多いなら、そのことに不満はないだろうが、事業実態として登録パートという従業者の存在なしで事業経営が難しい事業者も多く、そのことがヘルパー全体の待遇改善につながらない一要素ともなっている。

訪問介護というサービスは、利用者宅でのサービスであるために、勤務時間の全部の時間にサービス提供ができるわけではなく、しかも移動時間への給付費用は発生しないという制約があるということも事業経営上は大きな制約だろう。移動時間の給付費が発生しないとはいっても、雇用する側は雇用時間すべてに対価を支払う必要がわけだから、給付費用と見合った対価を考えると、どうしても施設サービスより待遇は低く見ないと、訪問介護事業の経営が難しくなるという側面があって、訪問介護員全体の待遇は低くなりがちなのだろう。そうであるにも関わらず、訪問介護員には最低限初任者研修の受講済みであるという資格条件が存在する。しかし施設サービスや通所介護や通所リハビリなどの介護職員は、まったくの無資格であっても業務に従事できるわけであり、わざわざお金をかけて介護職員初任者研修を受講しなくとも、訪問介護員より待遇の良い介護施設や通所介護の介護職員に従事することもできるわけで、訪問介護という仕事に就きたいという希望がない限り、初任者研修を受ける必要性が低いということが、この研修が不人気で人が集まらない一因だろうと思う。しかし同じ状況でも、介護保険制度創設時は、ヘルパー2級養成講座は受講申し込み者全員が受講できるとは限らず、足切りする必要があるほど申し込みがあったのだから、現在の状況は介護職員となり得る人的資源は既に枯渇状態にあることを示した状況と言えるのではないだろうか。

こうした状況で事業経営が困難になるほどの大幅な給付費削減を行ってしまったのだから、訪問介護事業からの撤退事業者が増えることが予測され、介護サービスの総量はますます減る方向にしか向かわないと考える。業界から撤退する事業者が増えるのが、この3年間であるのだから、事業者によっては撤退した事業者の職員を新たに確保して、事業者単独で見れば一時的に人手不足が解消される現象が様々な場所で起きていくだろう。事業経営の戦略としては、撤退事業者が数多く出てくる中で、生き残っていく事業者はシェアを拡大して収益を挙げるという形で、ビジネスチャンスをつかむことができるかもしれない。しかしそうであっても、この国全体の介護サービスの総量は、利用者ニーズを補うほどに確保することはできないというのが現在生まれつつある状況で、これが国の施策だというならまったくもってこの国は、国民の命と暮らしを軽視しているとしか言いようがない。特定の事業者だけが利益を確保しても、国民の福祉の向上という介護保険法の理念が実現できない方向にかじ取りをしてどうするのだと言いたい。そんな状況ではないというなら、その証拠を示してみろと言いたい。

どちらにしても、この深刻な人手不足と、事業経営を危うくするような乱暴な介護報酬の改定状況を見渡して、これを「ビジネスチャンス」だなどと声高らかに叫んでいる人を見るにつけ、国民の福祉を人質にとって何がチャンスかと白けた気持ちになる。確かに介護事業はビジネスである。そうであれば当然ビジネスとしての収益確保は必要であり、そのための経営戦略は必要だ。厳しい時代であればなおさらのことだ。そして収益を挙げることを否定する何ものもないし、収益を挙げること自体は罪でも何でもない。それは経営者の能力であり誰からも後ろ指さされる所以はない。しかしそれだけで終わってよいのか?自ら厳しい時代にチャンスを見出すだけでよいことなのだろうか?そこには国民の暮らしというものが存在するぞ。自分の事業と関係ある人の暮らしだけ支えることができれば、そのひずみで光が届かない人々の暮らしが存在してもよいのか?介護保険法の第一条で謳われている、「国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする」をただのお題目にしてよいのか?そのことを実現するソーシャルアクションの必要性を唱えることは、負け組の遠吠えだとでもいうのか?

自己責任という言葉により、制度の光が届かない影の部分を正当化する地域社会を創り、累々と屍が横たわる中で、一部の事業者が利益を上げてどうするのだろうか。屍を踏み越えて利益を上げる事業者が勝ち組として存在しても、横たわる屍とは負け組の事業者だけではなく、制度の影で息絶えたたくさんの地域住民が混じっていることになぜ気が付かないのだろうか。

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