HOME > U+(ユープラス) > 奇論・暴論 > 第264回 金正日総書記の死
2011/12/26
同じ民族でありながら、スマートフォンの普及率が国民の約5割と、日本よりも急ピッチで「スマホ大国」の高度電子社会に進む韓国と比較すると、北朝鮮の国民は、率直に言って不幸である。国民の幸せとは何か、は一概には言えない、という紋切り型の反論が聞こえてきそうだが、百歩譲って、その国で毎年、多数の餓死者が出て、危険を冒してでも国境線を超えて国外脱出を図る人が後を絶たない、というような国の国民は、幸せだとは言えないだろう。
その原因は、志の高いとは言えない硬直した「政治指導者」の独裁体制にあった、と考えるのは正論だろう。その独裁者の死去に対してウソ泣きを強いられる国民もまた哀れに思える。「国民は涙を流しながら」という解説付きのニュース映像を子細に見ても、目はこすっているが涙はほとんど見えない。涙もなく絶叫しているだけだった。もしかすると涙が枯れ果てた後だったか。
ただ、他の国民に同情ばかりもしていられない。翻って我が国の政治、それに伴う行政の現状を見ると、それは幸せとはいえまい。それはわれわれの期待する社会のイメージが高尚過ぎるのか、期待値にほど遠い現状だからだ。韓国に引き離されたスマホ普及率を、これから一気に縮めることができたとして、果たして、われわれの幸福感は戻ってくるのか。
情報通信システム、電子機器を駆使して高度な情報社会を実現し、オープンな社会を作る、という目標に向かってわれわれは猛進してきた。それでどんな社会ができたのか? 飢餓による餓死はないものの、毎年、およそ3万人が自ら命を絶つ。ある人には未来の扉が閉ざされ、希望を断たれた社会になっているのではないか。金総書記だけを断罪するわけには行かない。
「電子化」の進展をもって、社会が発展している指標にするのは慎重になった方が良い。問題はその道具を使って不幸をどれだけ遠ざけることができるか、どうか、ではないのか。金総書記の死去のニュースをテレビで眺めながら、そんなことが頭に浮かんだ。