HOME > U+(ユープラス) > 奇論・暴論 > 第266回 デジタル化を読み切れなかったコダックの痛恨
2012/01/23
写真フィルムの名門、イーストマン・コダック社が米国連邦破産法の適用申請をした。まだ事業再生可能な余地を残す段階なので、コダックが再び蘇ることもあるかもしれないが、デジタル革命の大きな波に乗り切れずに、コダックとしては一つの時代が終わった、ということだろう。
1995年秋に筆者はちくま新書で「マルチメディア・ビジネス」という本を出した。その中でデジタル製品はムーアの法則で10年間に100倍の価格性能比が向上するので劇的に能力が上がることを指摘した。当時、フィルム式カメラに対してデジタルカメラの画素が粗く、到底、デジタルカメラは実用にならない、というのがカメラ業界の評価だったが、筆者は、デジタルカメラは急速に性能が向上して、その難点は問題なく解決される、と主張していた。
さらにデジタルメモリーに蓄積された画像情報はパソコンに移して、インターネットで世界中のどこにでも送信し、楽しむことができるので、フィルム式写真とは利便性に決定的な差ができる、と断定して、フィルム式カメラの時代は長くないと論陣を張った。
当時、20万画素程度で、10数万円もしていたデジタルカメラの詳細度は、10年で、画素は10倍、価格は10分の1になる計算なので、2005年ころには250万画素で2万円程度のデジタルカメラが出てくるはず、というのが、筆者の予測だった。
実際に、想定された進化が起きた。さらにケータイにデジタルカメラが部品として収納される、スマートフォンに入ってインターネットに直結する、という想定外の進化もあって、写真フィルムは市場から置き去りにされてしまった。
この変化を読み切った、旧・富士写真フイルム、現・富士フイルムは写真フィルム製造で培った技術を多分野に展開して、見事に「脱写真フィルム」の多角化を成功させて成長を続けたので、コダックにもチャンスがなかったわけではない。なぜ、コダックは業態変化できなかったのか。「デジタル化」の意味を読み切れなかったのは、なぜなのか。経営学の教材になりそうだ。