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第10回 呪文が通用しない認知症高齢者のケア

2012/05/21

認知症高齢者の方々の「行動・心理症状」(BPSD)の原因は混乱である。今、自分が置かれている状況が分からないから、なぜそこに自分がいて、何をしてよいのか理解出来ない。どうしてよいかわからないから不安になる。その不安が様々な混乱を生み、周囲の人々が理解できない行動をとるようになる。しかしその時、認知症高齢者の方々は心の中で、いろいろなことを考え、いろいろなことを訴えているのだ。

認知症の人が何も考えず、何も訴えられないということはない。ただしその表現方法は、必ずしも第三者に理解できるような方法で伝えることができるわけではない。その伝え方とは、言語でさえない場合もある。周囲からわけのわからない言葉や行動であるとしても、それが認知症の方々にとっての何かを伝えようとしている結果であるのかもしれない。

特養などの高齢者介護サービスの現場で、認知症高齢者の方々は
「ここはどこなのだろう、自分は何故ここにいるのだろう、どうやってここに来たのだろう。」
「ここは何で年寄りばかりなのだろう。」
「ここは病院なのか。どうして自分がこのような場所にいなければならないのか。」
「あの若い人は何故自分の名前を知っているのだろう。」
「何か薄気味悪い。どうして自分の後を、知らない人がつけてくるのだろう。」
「知らない人が、なぜ自分に話しかけてくるのだろう。」
「年下の人間がなぜ自分に横柄な言葉や態度で接してくるのだろう。」
と感じている。自分に置き換えてほしい。見知らぬ人ばかりに囲まれ、どこかもわからない場所に自分がいるとしたら、それだけで不安になるだろう。認知症の方々で、記憶障害や見当識障害のある方は、常にそういう場所に置かれているのと同じなのである。

周囲の人々がその不安に気がつかないことが、さらに認知症の方々の混乱に拍車をかける。それがやがて破局反応:パニックとして行動がエスカレートするわけである。つまりそうした破局反応とは、周囲の人々が認知症の方の混乱に気づかない、あるいは気がついても適切に対応していないという周囲の問題でもあるのだ。

では、混乱する認知症の方々の不安を解消し、混乱を防ぐために我々はどういう態度で接するべきなのだろう。よくいわれる「理解的態度が必要」とか、「受容の態度で臨む」とはどういうことなのだろう。

少なくともそれは、認知症の方々の言動に対し、単純に分かったという言葉を返すことではない。分かったふりをすることでもない。それらの方々が本当に安心できるように、心から反応することではないのだろうか。

認知症の方々が混乱し、パニックになろうとしているとき、大丈夫という声かけは大丈夫じゃない。認知症の方は、根拠がないと分からない。根拠があっても、それが理解できないと分からない時がある。理解出来ないと大丈夫と思えない。大丈夫であることを理解できるように説明したり、態度で示したり、不安にならない状況を作ったりする必要がある。

呪文のように「大丈夫」と言い続けても、認知症の人には何が、どう大丈夫なのかまったく理解出来ないことが多い。大丈夫という言葉自体が意味のない音声にしかならない場合も多い。大丈夫という言葉が、本当に安心感に繋がるためには、大丈夫であると声かけする人が信頼できる人間であらねばならない。日ごろから認知症の方々が何を考え、どうしてほしいかをわかろうとしない人間に「大丈夫」と言われても何も大丈夫じゃないのである。だから症状は軽減しない。

逆に、その人が近くにいるだけで大丈夫という声をかけなくとも安心できるということもある。呪文より、人が大切だ。呪文より、関係が大切だ。

認知症高齢者のケアとは、BPSDが起こった時にどう対応するかという前に、認知症の方々が、安心してその人の支援を受けることができる関係を作ることが大事である。受容とは、認知症の方々の訴えや行動を、単に否定しないということだけではなく、その行動の意味を想像して、その人の立場になって「さもありなん」という気持ちで接するところからスタートする。理解的態度とは、人を愛おしむところからスタートする。だから支援動作には愛情が必要とされないとしても、症状を緩和するケアには愛が必要とされるのだ。

だから対人援助を動作援助だけで完結しようとする人に愛は必要とされないだろうが、ケアを行おうとする人に愛情がなくて良いなんてことにはならない。

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