HOME > U+(ユープラス) > masaの介護・福祉よもやま話 > 第18回 プロ意識を持つという意味
2013/01/21
介護サービスに従事している職員が、利用者に対して「家族に成り代わる」気持ちをもって、親身になって関わろうとすることは大事だろう。しかしどんなに我々が親身になって関わろうとしたとしても、我々は家族そのものにはなれない。いやなってはいけないのである。ここを勘違いしてはならない。
我々の職業とは、家族とは一歩も二歩も違った場所に立って、利用者自身を見つめなければならないのである。それは我々が身内を介護するという立場とは異なり、介護の専門職として関わるという存在だからである。家族の気持ちになるとういうことや家族の視点で物事を見つめるということと、家族と同じような存在になるということは違うのである。
我々が業務として顧客である利用者に関わる時に、人として親身に利用者に思いを寄せようとしても、その感情のありようや、関係性の距離感といったものは家族のそれとは異なるだろう。この距離感を意識せねばならないのだ。あくまで家族以外の第3者として、そして福祉援助や介護支援のプロフェッショナルとして関わるのが我々の職業である。
当然のことながら、家族であるがゆえに許される態度や言葉は、我々には許されないということを知るべきである。息子や娘が、親に対してぞんざいな言葉遣いをしたとしても、それは生まれ育った環境の中で、長年培われた関係の中で許される言葉なのであり、介護のプロであっても、それと同じ対応が許されるわけではないのである。「くだけた態度や言葉」が親しみの表現であると勘違いしてはならないのである。家族が使う「ぞんざいな言葉」を聞き、それが利用者にとって親しみやすい言葉であると勘違いすることはあってはならないことなのである。言葉は使う人によって、意味が違って来るということを、プロである我々は意識せねばならない。
人は低きに流れやすいものだ。プロとして意識して態度や言葉を正しく使うより、家族のようなぞんざいな言葉を使う方が楽だから、様々な理由をつけて態度や言葉を改めない人が多い。態度や言葉遣いを正しくしないと注意されるからという理由で、いやいや正しい態度や言葉を取り繕おうとする人は、誰も見ていない場面ではその本性である醜い態度や言葉になってしまうことが多い。
それは専門職としての、プロとしての意識に欠けるとしか言い様のないことなのである。プロでない人に、誰がお金を支払いたいと思うだろう。国民の税金や保険料を誰が使って欲しいと思うだろう。残念ながら、介護の職業に対する報酬がなかなか改善されない背景には、こうしたプロ意識のない人々でも、職業として従事して対価を得ているという実態があるという要素が含まれているのである。ここを何とかしないと、本当の意味での待遇改善などできない。国民全体のコンセンサスが得られないからだ。
職業に対する誇りとは、そこに自然に転がっているものではなく、求められる過程を経て、結果を出すことができる仕事をする先に生まれるものなのである。プロとしての誇りを持つことができる人とは、プロとして利用者に関わることが出来る人である。素人と同じレベルでしか利用者に関われない人が、どうしてその職業に誇りを持つことができると言うのだろうか。そのことを決して忘れてはならないし、人間を相手にして、人の生活援助に関わるプロであるなら、そこでの対応の仕方は、服装や言葉遣いなどを含めて、もっとも気を使わなければならないと思うべきである。それは我々の仕事術でもある。
そうであるならそこで使うべき言葉はプロとして、最もふさわしいものであることを常に意識すべきだろう。