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第19回 ヨシさんの戦争体験

2013/03/04

太平洋戦争は、日本時間の昭和16年12月8日の真珠湾攻撃で始まり、玉音放送のあった昭和20年8月15日を終戦の日としている。この3年9ケ月に満たない期間、その時代の人々は我々が想像もできない壮絶な体験をしているのだろう。それらの人々の中には、自分が経験した戦争を後世に語り継いでくれる人も多いが、全くその時期のことを話したがらない人もそれ以上に多い。

僕の施設に入所されている方の生年月日をみると、大正二桁〜昭和一桁生まれの方が7割を占めている。その人たちは、10代〜20代の多感な青春期に戦争を体験している。しかし施設の中で戦争体験が話題になって会話が弾んでいる姿はほとんど見られない。その話題が語られることもほとんどない。それだけ辛い日々であったのではないだろうか。戦争を体験した世代の人たちも、80代〜90代になってきている。戦争の生き証人は高齢化し、だんだんいなくなる。後世にその悲惨な体験を伝えることは、我々が「いつかきた道」という、間違った道を選ばないためにも必要なことだと思うが、実際に体験した人の口からそのことを伝える機会は確実になくなりつつあるのだ。そうであるがゆえに、我々の世代〜そのあとの若い世代の人も含めて、戦争体験者の方々から生々しい体験談を聞いて、何らかの形で次代の人々にその記録を残し、伝えていかねばならないのではないかと思っている。

もちろん国としての戦史はきちんと記録保存されている。しかしそういう公式記録ではなく、この国のそれぞれの地域で、一庶民としての様々な体験談をもっと残しておかねばならないのではないかと思う。戦争を題材にした記録小説なども数多く出版されてはいるが、そういうものにも載っていない声なき庶民の戦争体験をもっと伝えて行かねばならないのではないかと思う。僕の住む登別のすぐ隣街である室蘭市は、終戦のわずか1月前に行われた北海道大空襲の際、北海道で一番死者数が多かった街である。その体験談も歴史に埋もれることなく、残しておきたいものである。

ところで今週月曜日の朝、出勤するとデスクの上に1枚の封筒が置かれていた。郵送で届いたものではなく、当施設併設のデイサービスの利用者の方で、現在医療機関に入院中の方と同室者の患者さんから、僕に渡して欲しいと医療機関の職員が頼まれたものを、連絡を受けた当施設事務副主任のコバクンが医療機関まで取りに行ったものである。封を切ると、なかから7枚の便箋に書かれた手紙が入っていた。手紙の冒頭で送り主の方は84歳の女性であると自己紹介されていた。

その方は入院されている病院内で、同じく入院されている緑風園デイサービスセンターの利用者の方が読み終わった僕の本、「人を語らずして介護を語るな THE FINAL 誰かの赤い花になるために」を借りて読んだとのことである。とても感動したので、その思いと感謝を伝えたいとして手紙を書いてくれたとのことだ。そこには感想などが書かれていて、自分は病人ではあるが、その病院の中で他の入院患者さんにとっての「赤い花」になれると思って勇気をもらえたと、嬉しい言葉が書かれていた。

そして僕に対するエールの言葉が書かれているのだが、そこに関連して、その方が体験した戦時中の思い出が綴られている。思い出といっても辛い思い出である。トシさん11歳〜15歳までが戦争期間であったと思われる。お許しを得て、その内容を紹介させていただく。なおタイトルの「トシさん」というのは仮名である。紹介引用文は、臨場感を失わないように原文のまま、文字使いなども修正せずに転載させていただく。個人名や個人の特定につながりかねない部分については伏字とさせてもらった。

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私わ昭5年○月○○日生まれです。○○さんと同じですね。横浜生まれで14才の時にB29にやられ おとうさんわボークゴを出来上がった所に戦地に ○月○○日戦死ということでした
兄さん姉さんもいたのですが どこへ行ったか今だにれんらくなしです
母と2人で食べる物もなくて 母のおよめ入りの着物を持ってお米1合ととりかえる帰りに日本のケンペイにつかまり取られ毎日でした
最後にわ 地より出てくるミミズを食べました、太いミミズ、 うどんだと思って食べるのよと母が 2人で食べました 1生わすれません 色々と仕事もなく 夜になれば町かどに(パンパン)のお姉さん達がまっている お姉ちゃん何しているのと聞けば 生活のためと云っていました。
どんなにうらんだ事か 毎日泣いて暮らしました 20才になった頃に男に声をかけられました、青森の方でした 自えいたいの方でした、母さんのゆるしをえて一生になり青森に居たのですが 気ぼうてんきんで千歳に来ました 主人の名前は○○です。私も千歳に来て近所の方々にあいさつに行った所、玉ネギ ジャガイモ ニンジン色々とくれました なんて北海道の方々わあたたかい人たちかな〜と思いました 主人もつかれたのか○年前の○月○日になくなりました やさしい方でした 長年ほんとうにありがとうと手を合わせています
 (以下略)

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70代以降の高齢者の方々は、似たような辛い体験をお持ちの方がほとんどのはずである。我々は、そういう体験を経て生きながらえてきた方々の最晩延期に関わっている。その時、それらの人々が、「そういう辛い体験はあったけど、あの時命を失わずに長生きできてよかった。」と思えるのか、それとも長生きしたことで、自分の体の自由がきかなくなって、そのことにより若い他人から施しを受ける存在となり、そこで介護する人間の思うがままに生かされて、「こんな辛い思いするなら、あの時死ねばよかった」と思われるのか、それはすべて我々の考え方と、やり方によって左右されてしまう。その責任と怖さを意識すべきだ。そういう人々の赤い花になろうしないのであれば、我々の職業に価値はない。そういう人々の心に咲く赤い花になろうとしたとき、我々ははじめて自らの仕事に誇りを持つことができるだろう。

ミミズをうどんと思って食べないと生きていけなかったトシさんたちの苦労を思えば、せめて今、この平和で、食べるものにあふれた時代に生きさせていただいている我々は、そのことに心から感謝して、トシさんたちのような人々が、口からものを食べられるあいだに、美味しいものをたくさん食べて欲しいと思う。もし仮にトシさんのような方々が、自分でものを食べることができなくなったとき、食事介助をする際には、ただ単に栄養補給のための食事摂取支援を行うのではなく、美味しく食べ続けることができるように、できる限りのお手伝いをしたいと思う。それが普通の心だと思う。それなのに、スプーンの上にすくったものを見たときに、自分の口に入れるのをためらうような形状のものを平気で他人の口に突っ込んで、何の疑問もなくそれを食事介助だと思っている人がいる。それは不遜なことだ。許されないことだ。

我々が今、戦争とは無縁に平和に暮らすことができており、そのことが当然だと思っている。しかしこの国は、トシさんのように最愛の肉親を失ったり、食べる物も食べられず、口に入るものを何でも口にして、やっとの思いで生きてきた人々の血と汗と涙によって今平和で豊かなのだ。そのことを忘れてはいけないし、そのことが忘れ去られた時に、この平和も、現在の豊かさも、この国さえも、何もかもを失ってしまうかもしれない。だからこそ、あの戦争で失われた沢山の人々の命や、地を這いつくばって頑張ってきた沢山の人々の思いを胸に、我々が人として考え続けなければならないこと、人として守り続けなければならないことはないかという問いかけを、常に忘れてはならないのではないだろうか。

この国を守り豊かな国にしてくれたすべての高齢者の方々に、もっと謙虚な気持ちで相対しなければならないのではないだろうか。

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