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第23回 問われるモラルハザードとは何か?

2013/07/08

社会保障審議会の介護保険部会や、介護支援専門員の資質向上と今後のあり方に対する検討会等では、モラルハザードと言う言葉が頻繁に使われている。具体的には、「モラルハザードが起きている」とか、「モラルハザードを防止しなければならない」などといったふうに表現されている。そこで使われているモラルハザードの意味合いは、「倫理崩壊」・「倫理欠如」という意味だと推察する。居宅サービスにおける倫理の崩壊・欠如が適切なサービス提供に結びついていないとか、介護支援専門員の倫理崩壊・欠如が、適切な居宅サービス計画を作成できない要因になっているというような意味である。

しかし、こういうふうにモラルハザードという言葉を使うのはいかがなものだろうか。なんでもかんでもカタカナで表現すれば、知識が豊富というわけでもあるまい。モラルハザードとは、本来金融用語である。それは預金保険といったセーフティネットの存在により、金融機関の経営者、株主や預金者等が、経営や資産運用等における自己規律を失うことを意味する言葉だ。だからモラルハザードの、モラルを倫理と捉え、モラルハザード=倫理の崩壊と訳するのは間違っている。現にそんな意味でこの言葉を海外で使っても通用せず、意味不明と首を傾げられてしまうので注意が必要だ。

そうは言っても現実には、国の委員会で堂々と、「倫理観や道徳的節度がなくなって社会的な責任を果たさない」という意味でモラルハザードという言葉が使われているのも事実である。では一体、介護サービス従事者に問われている「倫理欠如」って具体的にはなんのことなのか?ここが僕にはよくわからない。例えばモラルハザードによって、適正なケアプランを立てていないと介護支援専門員が批判されることがあるが、それはどのようなプランで、具体的にどんなサービスが提供され、それのどの部分が不適切だというのだろう。その具体例がまったく示されていないのだ。必要ない生活援助(家事援助)を、生活援助の提供制限ルールを無視して計画していたというならともかく、日中独居の高齢者に生活援助を組み込むこと自体は、暮らしを守るために必要なサービスである場合が多いし、認められたルールの中で計画しているのであれば、そのことをモラルハザードとは批判できないはずだ。

基礎資格が福祉系サービスである介護支援専門員に対し、医療知識がないから、必要な医療系サービスを組み込んでいないと批判されることがあるが、それはモラルハザードの問題ではないし、知識不足で医療系サービスを組み込んでいないのか、別の代替方法があることからケアプランに医療系サービスを入れていないのかという検証も不足しているのに、不適切プランだと勝手に決めつけるなと言いたい。アセスメントを行って計画した内容を、アセスメントを読まないで、ケアプランだけ読んで、サービスの適正さを判断している有識者など、何の有識者かと言いたい。なぜならアセスメントとは、サービスの必要性だけを調査検討するのではなく、不必要なサービスをも調査検討することではないか。訪問看護が組み込まれていない理由は、家族による通院支援が行われ、医師と家族が良好なコミュニケーションが取られていることで、他に介入すべき必要性がないと判断することもあり得るのだ。

介護支援専門員批判は、根拠がない思い込みや印象によって展開されている向きがある。少なくとも介護支援専門員のマジョリティは、ケアプランをまともな根拠に基づいて作れない介護支援専門員ではないはずだ。それなのに一部の質の低い介護支援専門員の問題がどこかで取り上げられ、その印象から、データや根拠に基づかない介護支援専門員全体に対する批判につながっているように思う。その時に「モラルハザード」という言葉を使うと、その言葉を発している本人が、無意識ではあるが、自分の方が知識豊富だと思い込むことができるのだろう。無意識のうちに何か科学的根拠のある発言をしていると思い込むことができるのだろう。あるいはそういう印象を他人に与えると思い込んでいるのだろう。随分便利な言葉があったものである。

事実として言えば、介護支援専門員の存在を頼りにして暮らしを送っている要介護高齢者は、地域社会で確実に増え続けている。在宅で生活する人々の暮らしを支える調整役となって活躍している介護支援専門員は実に多い。その人たちがいなくなったら、その瞬間から今の暮らしを維持できなくなる要介護高齢者の方々がたくさんいるという事実にも目を向けるべきである。

阪神大震災の時は、行政職員や、たくさんのボランティアの方々が、被災地で要介護高齢者支援にあたって活躍された。その中には、介護サービス関係者もたくさんおられたが、そこに介護支援専門員という存在はまだなかった。しかし東日本大震災の時には、介護支援専門員という存在があり、それらの人々が自ら被災しているにもかかわらず、自分の担当者の安否確認に走り回り、必要なサービス調整に駆けずり回った。阪神大震災の時に不明瞭だったサービスの総合調整役がそこには存在したのである。そのことを考えるだけでも、介護支援専門員という職種が誕生し、居宅介護支援に関わる介護支援専門員が地域の中で活動するのが当たり前になった今日は、それ以前の地域社会より、確実に介護、福祉分野における調整力、対応力が向上した社会であるといえるし、福祉援助と介護サービスに限って言えば、危機管理能力が向上したといえるであろう。

地域包括ケアシステムの中では、多様化するサービスと、援助を必要とする人々を結びつける調整役がより重要な役割を持つことになる。今以上に調整能力を持つ人材が求められる地域社会になっていくのである。保健・医療・福祉・介護の資源を横断的に総合調整するために、介護支援専門員が果たす役割はより重要となり、より必要とされていくであろう。そうした評価をきちんとしていく必要がある。介護支援専門員に対して批判一辺倒に陥ってしまえば、この職業に有能な人材は集まらず、超高齢社会が進行する中で、地域社会におけるサービス調整能力は低下の一途をたどるであろう。それは国民が求めるものではないし、超高齢社会のニーズでもない。

同時に、介護支援専門員が自覚しなければならないこともある。それは介護保険制度の中で、主要な援助手法として展開されるケアマネジメントというのは、社会福祉援助技術のごく一部にしか過ぎないということである。そうであるがゆえに、介護支援専門員という資格を取得しただけで、ケースワークの原則はじめ社会福祉援助技術の基本を理解しない状態で、ケアマネジメントの手法だけを拠り所にして利用者に関わっても、生活課題は解決できないという壁にぶつかるのである。バイスティックの7原則をはじめとした社会福祉援助技術の基礎知識を備え、ワーカビリティ(援助を受けようとする身体・精神、情緒的能力)の評価がきちんとできて、アウトリーチ、アドボカシーなどの専門技術を酷使して生活支援に当たる専門家として地域で活動していく必要があるだろう。相談援助職としての知識や技術に欠けていることの自覚がある介護支援専門員は、今からしっかり社会福祉援助技術の基本を勉強し直すべきである。専門家であるか否か、あるいは支援者としてセンスがあるか否かということは、汗をかく気持ちがあるかどうかで決定的な差が生ずるものであって、生まれ持った資質はさほど重要ではないことを忘れてはならない。人の生活に関わる以上、それなりの資質向上を図って社会や社会と接続する個人の幸福につなげたいものである。

そして本当の意味で、地域社会から、そこで暮らす人々から、求められる社会福祉援助のプロになっていく必要があるだろう。なぜなら介護支援専門員の役割と機能を考えたとき、それは今後の社会になくてはならない存在だからである。なくなっては困る存在だからである。

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