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第40回 心を語らないケアは空しい

2014/12/08

僕の施設の一番大きな行事は、敬老の日がある週に行う、「緑風園まつり」である。そのお祭りの際に何年も続けて、寄付物品を持参してくださるご遺族がおられる。その時に緑風園を訪れる方は、寄付物品を置いて帰るのだけではなく、施設の中を懐かしそうに見て歩き、故人となったお母さまの暮らしていた部屋を見て、知り合いの方がいると声をかけて、当時の思い出話をしている。そのほかにも何年か前に亡くなった利用者のご遺族が、「母が暮らしていた部屋をもう一度見せてもらえますか」と施設を訪ねてくることもある。例えばそれは3回忌で、親せきが久しぶりに集まった機会をとらえ、その親戚に最期にお母さまが生活していた場所を見せて、そこでどのような暮らしをしていたのかを伝えたいという場合であったりする。このように施設とご遺族の方の縁が、利用者の方々がなくなっても途切れず、続いていることはとてもありがたいことだ。同時に思うことは、このような思い入れを持たれるご遺族が複数いるという意味は、最期に暮らす居場所で、どのような暮らしぶりであったかということが、そこで暮らしていた方ご自身だけではなく、ご遺族の方々にも重要な意味があるということだ。

施設を訪れてくれるご遺族は、亡くなられた方の施設における暮らしぶりに満足されてくれているのだろう。そしてそれは我々の介護サービスのありようを認めてくれているという意味だろう。しかし実際にこのように施設を訪れてくれるご遺族は、ごく少数である。遺留金品の引き渡しを終えた後は、一度もお逢いしないご遺族の方が圧倒的に多いわけである。その方々も、我々の介護サービスに満足されていたのかどうか、ここは我々自身が振り返り、想像するしかない。そしてすべての人々が満足できる介護サービスを、施設の中で築き、護っていく必要がある。

特養という施設の性質上、我々が利用者とお別れするという形は、長期入院で退所される例を除くと、ほとんどが利用者の「死」という形でお別れのときを迎える。それは時には、突然訪れる別れであったり、ある程度予測された状況の中での別れであったり、様々である。看取り介護を実施するか否かにかかわらず、我々は常に死という形を見つめながら、予想もできない別れが突然訪れた場合にも、悔いのないように、日々の利用者の方々との関係性とサービスの質を意識して関わっていく必要があると思う。

看取り介護についての講演も行うことが多いために、よく「緑風園さんではグリーフケアはどのように行っていますか?」という質問を受けることがある。しかし当施設では、特別なグリーフケアは行っていない。例えば、亡くなられた利用者の方の命日に、線香をあげに自宅を訪ねたり、手紙を出したりしている事業者があることを知っている。それが必要ないなどとは言わないが、グリーフケアを意識するあまりに、そのことが形式化・形骸化することを恐れる。むしろ我々の使命と責任は、最期の瞬間まで、我々ができ得る限りの全力で、心を込めたケアを行うことではないかと思う。後悔のない日常介護、その際にある看取り介護を行うことが、遺族にとっては何より意味があることで、グリーフケアが必要ないほど、その瞬間まで満足していただける暮らしを創る努力が我々に求められているのではないだろうか。

そのためには普段の暮らしを、どのように支援しているのかということが大事だ。人として普通の暮らしを、普通に提供できていることが大事だ。その先に人によっては、看取り介護という時期があるのかもしれない。その場合、看取り介護は、誰かの人生の最終ステージに寄り添う介護である。そこでは本当の意味で心を込めて寄り添う姿勢がないと、必要とされることを見失ってしまう。そしてそれは二度と取り返せない、後悔にしかならない。そういう後悔をしないためにも、心を込めて寄り添うことが大事だ。心を込めると、何もしないのに笑顔になってくれる人がいる。それは心を込めるという、心遣いが見えるからかもしれない。心は見えなくとも、心遣いは見えるんだ。そう信じたい。そしてそれは看取り介護だけではなく、今いる人々、すべてに対する日常ケアに求められることだろうと思う。

そういう意味で、対人援助とは言葉で言い表せない、目に見えない、「心配り」なしで語ることのできない職業だと思う。だから尊い。だから誇りを持てるのだ。

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