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第41回 終活を考える〜愛する誰かに対する「できる限り」の意味

2015/01/19

最近「終活」をテーマにしてセミナーが増えており、僕もそうしたセミナー講師としてご招待を受ける機会が多くなっている。

終活について、その言葉の明確な定義があるわけではないが、それは人間が人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括した意味と考えらえており、自分がまだ元気で意思を伝えられる時期に、自分自身のための葬儀や墓などの準備や、財産処分の方法などを決めておくことや、終末期に意思を伝えられなくなったときに備え、リビングウイルの観点等から、どのような医療を受けたいのか、口から物を食べられなくなったときにどうするのかなどの、具体的な希望を第3者に伝えて記録しておくことなどを指している。それらを総合的に考えるセミナーが、「終活セミナー」である。

僕は介護施設等での看取り介護に関する講演を、全国各地で行っているので、そうした立場から、将来看取り介護を受ける立場になることを想定して、そのことの備えとしてのアドバイスが求められているのではないかと考えている。そのため終活セミナーでは、次のような提言を行っている。

自分が回復不能な嚥下困難な状態になった後に、経管栄養をするのかしないのか。あるいは自分が意識不明となり、自発呼吸ができなくなったときに、人工呼吸器をつけてほしいのか、欲しくないのか等、終末期をどのような状態で過ごしたいのか、どのように自らの人生の最終章を迎えたいのかということについて、自らの希望を明らかにしておく時期に、「早すぎる時期」は存在せず、周囲の信頼できる人に、その希望をできるだけ早く伝えておく必要があるということだ。

その意味は、最期の瞬間まで自分が自分らしく生きるために必要であるのと同時に、終末期に何をすべきかを決めるという「過酷さ」を家族に委ねては可哀そうだという意味がある。少なくとも僕は、僕の意思を明らかにしないまま、愛する家族がそのような重い決定をしなければならないという心の負担を負わせたくないと思う。

口から物を食べられなくなったときに、本人の意思が確認できない状態で、死期を早めることにつながる、「経管栄養は行わない」という決定を、自分の妻や息子が行った場合、僕自身はそのことに全く異議はないし、妻や息子の決めたことをすべて受け入れて、決定してくれたことをありがたく思って旅立っていけるという思いはある。しかしその決定を行った当事者である妻や息子の立場や視点に立って考えればどうだろう。

夫もしくは親の意思が確認できない状態で、最善の結果を求めて真剣に判断したとしても、いざ死という場面に直面した際に、自分が配偶者もしくは親の死期を早めたという罪悪感を全く持たないとは限らない。そのことで悩み苦しむかもしれない。そのようなことがないように、延命措置を取ってほしい、とってほしくない、という自身の希望や判断は、きちんと家族に伝えておくべきである。自分が終末期をどう過ごしたいか、どのように人生の最終章を迎えたいかを明らかにしているにも関わらず、なおかつその判断と異なる決定を家族が行ったとしても、僕自身はそのことを認めるだろう。ただそれが残された者の心の傷にならないことを祈るのみである。逝くものは、残された者が幸せでさえあれば良いと思う。

死とは、ある人の生命の終わりを表すが、その影響を受けるのは逝く人のみならず、その周囲の人々すべてに及ぶものである。そうであるがゆえに、逝く人より、生きてこの世の時間を過ごし続けていかなければならない人が、どのような影響を受けるのかということの方が重要ではないかと考える。残される者たちが、逝く人を愛おしく思う限り、間違った決定というものは存在しないのだろうと思う。愛する者同士が、愛を持って決定する行為に、「誤り」は存在しないのだろうと思う。だから周囲の人々は、そうした状況で決断された結果を、審判することがあってはならないわけで、すべてを受容すべきである。

ただ一つだけ送る側の人に言っておきたいことがある。最期の場面まで、どのように過ごすべきかを決定する際に、「できる限りのことをしたい」といって、その「できる限り」の意味が、できるだけ長く心臓を動かし続ける意味でしかない場合がある。それは果たして最愛の人に、できる限りのことをする結果になるのだろうか。それはどうも違うように思う。最後の場面を安楽に過ごす際に、血管が確保できるぎりぎりまで点滴が必要になるという思い込みはしてほしくない。点滴の針を引き抜く人がなぜ多いのか。ゆがんだ表情で点滴を受けている人がなぜ多いのか。必要最低限の水分しか取っていないはずなのに、手足がむくんでくるのはなぜなのか。逆に、点滴を一切行わずに水分も取っていない人の体内から尿や体液が排出されるのはなぜか、それらの人々が、最期を迎える時間を過ごす中で、のどの渇きや空腹感を訴えずに、表情が安らかな人が多いのはなぜか?そのことは医学的に答えが出ているわけではないが、体が自然に死になじんで、死への準備を始めているということはあることなのだ。その時に血管が確保できるからと言って、無理やり水分を流し込むことに何の意味があるのだろうか。

前述したように、終末期の過ごし方・迎え方は、旅立つ人だけに意味があるのではなく、周囲の人にも意味があるのだから、家族の善意と愛情に基づく決定はすべて受け入れられてもよいとは書いた。ただその時、本当に愛する人を最善の方法で送りたいと思うならば、単純に心臓を動かす時間が長かったという尺度だけではなく、本当に死を迎える瞬間まで、愛する人が安楽であるのか、そのことを測る基準にはどのようなものがあるのかを多角的な視点から見つめて、そのうえで判断してほしいと思う。愛する誰かのために、そのことを真剣に考えてほしいと。

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