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第48回 どんな言葉で最期を見送ってほしいですか?

2015/08/17

介護報酬改定において、大幅減収となった介護老人福祉施設ではあるが、看取り介護加算については増額が図られている。それは死者数が増える中で、医療機関のベッド数が増えないという状況がある中で、2030年には40万人の人の死に場所が見つけられないという事情がある。そのために介護施設で亡くなる方の数を増やさなければならないという意味があるとともに、終末期にかかる医療費を抑制するためにも、介護施設や自宅等での看取り介護を増やしていく必要があるという意味もある。その中での看取り介護加算の増額である。

しかし看取り介護加算がいくら増額されたからといって、最大30日しか算定できず、しかも一人生涯一度きりの算定であるこの費用が、運営費に占める割合は微々たるものである。100人定員の施設で見ても、年間平均死者数は10〜30人程度であろうし、その中で看取り介護を算定するケースが9割と想定しても、それが施設経営に影響するほどの増収ではないことは明らかである。むしろ看取り介護加算を算定するために、かかる手間や、看取り介護を実際に行う際の超過勤務、夜間呼び出しにおける費用支出などを総合的に考慮すると、看取り介護加算は決して施設の増収とはならないという結論になる。よってこの加算を施設の経営安定のための増収と見込んで算定しようとして、看取り介護の体制を整えようと考えている施設管理者がいるとしたら、その経営センスはかなり疑わしいと言えるのである。

だからと言って、看取り介護加算を算定しないということにはならない。なぜなら看取り介護そのものは、特養に求められている基本機能と言えるからだ。特養が、生活施設であるとするなら、そこは利用者にとって本当の意味での、「暮らしの場」となる必要があり、そうであれば最期の瞬間まで安心して暮らせる場でなければならない。「最期は家の畳の上で死にたい」という願いは、自宅に帰って死ぬことではなく、自宅に替わる暮らしの場として、長い期間生活していた特養の自室で死にたいという思いとなるように、私たちは心を込めて介護サービスを提供する必要がある。つまり生活施設は、終生施設となることと同じで、最期の瞬間まで安心・安楽に暮らすことができるという意味は、自然死という状態を、適切に看取ることを当然とするという意味である。逆に言えば、死ぬためだけに別な場所に移動しなければならない場所は、生活施設とも終生施設とも言えず、そこは決して「暮らしの場」にはなり得ないのである。

そうであるがゆえに、地域住民から信頼され、選ばれる施設として、長く安定経営をできるためには何が必要かを考えると、その基本機能として看取り介護を行うということは必然の結果と言えるし、その品質を高めていかないと、特養としての社会的要請に応えることはできず、やがては地域包括ケアシステムの中では、いらない施設という烙印を押され、消滅していく運命しかないと言えるのだ。そういう意味で、看取り介護の実践は、特養の使命であり、ごく当たり前に備えおくべき基本機能と言ってよいだろう。

だからと言って考え違いをしないでほしいことがある。看取り介護の実践には、職員のスキルアップが必要ではあるが、それは「看取り介護に対するスキルアップ」ではなく、「日常介護全体のスキルアップ」であるということだ。間違ってはいけないことは、看取り介護ができる職員を育てることが大事なわけではないということだ。大事なことは、死を間近にした人々の暮らしを支え、最期の瞬間を看取ることも、「介護」であると理解できる職員を育てることだ。看取り介護が、特別な介護ではなく、日常の介護の延長線上に、たまたま近い将来の死が予測できる人がいて、その人に対して、最期の瞬間まで安心と安楽の暮らしを提供するために、必要なことをするということに過ぎないと考えることである。それは誰かの人生の最終ステージを、きらびやかに飾ることではなく、穏やかで安らぎのある日常を最期まで護ることである。

看取り介護は、日常とは別な場所に存在する特別な介護ではないのである。むしろ日常とのつながりを途絶えさせるような関わり方をしないことが大事なのである。最期の瞬間までつながる豊かな日常を創造することが一番求められているのだ。職員の笑顔は、そのために求められるものであり、特養で暮らしている人の心を護るための、礼儀や言葉遣いの適正化も、そのために求められるのである。それがケアの品質を左右する重要な要素であることを、管理者は繰り返し職員に示さねばならない。最期の瞬間、息を止めようとするときに、若い職員から友達言葉で話しかけられたいと思う人が何人いるのだろうか。ため口で見送ってほしいともう人が、何人いるのだろうか。仮にそのことを、逝く方が寛大な心で許してくれるとしても、一緒に看取ろうとしている家族は不快な思いを持たないだろうか。他人である年下の職員が、ため口で言葉を掛ける姿を見て、親しみを感じる前に、慇懃無礼な馴れ馴れしさに不快感を持たないだろうか。そう考えると、看取り介護の最終場面まで、日常的に丁寧語を使って利用者と相対するということは、必要不可欠な介護のプロとしての態度なのである。そして、日常的に丁寧語を使えない人が、最期を見送る時だけに、言葉を変えようとしてもそれは極めてぎこちないものになり、心のこもらないものになるだろう。

職員をそうした存在にしないためにも、日常会話からの言葉の適正化は大切である。言葉を崩すことでしか親しみやすさを伝えられない人は、言葉を正しくしても、なおかつ親しみの心を伝えられる人に比して、人を傷つける危険性は高くなるというリスクマネジメントが求められることを知ってほしい。

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