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第82回 旅立つ瞬間を看取る意味

2018/06/11

我が国において現在、「孤独死」の明確な定義はない。一般的に孤独死とされているものは、事件・事故以外の病死・自然死等で、「自室内で、誰にも看取られず孤独のまま死亡すること」と解釈されている。だが孤独死の法的な定義が存在しないため、こうした状態は、警察の死因統計上では「変死」という扱いになるほか、行政においては「孤立死」という言葉で表現されることもある。そしてこうした場合、第三者や身内の方に発見されるまで、しばらく期間が経過してしまうケースが多くなり、遺体が発見されても身元が確認できなかったり、いわゆる特殊清掃が必要になるケースも多い。

向こう三軒両隣の関係が希薄になった現代社会では、隣人の存在を死臭によってはじめて意識するというケースも珍しくなくなっているのである。そういうケースをできるだけなくそうというのが、地域包括ケアシステムの目的の一つでもある。

ところで、僕が行う看取り介護講演では、医療機関や介護施設で死の瞬間を迎えるからといって、必ず看取り介護・ターミナルケアが行われているわけではないとしたうえで、そこには「医療機関内孤独死」・「施設内孤独死」が存在すると指摘している。それは医療機関入院中の方や、施設入所者の方が、見回りと見回りの間に息を止めて、死の瞬間を誰も看取ることのできなかった死のことを指した表現だ。それに対して、死の瞬間を看取ることができないからといって、きちんとした終末期の対応が行われておればよいのではないかという意見もある。そこまで頑張る必要はないのではないかという意見もある。確かにそうだろうと思う。終末期であるというコンセンサスのもとに、適切な対応さえできておれば、死の瞬間を必ずしも看取らねばならないことではないという意見に反論はない。在宅死であっても、死の瞬間に誰かが傍らについていなくとも、日常の支援行為が適切に行われておれば、それは孤独死ではなく、「在宅ひとり死」に過ぎないので、見回りの際に息を止めていることが確認される死も、「ひとり死」であり孤独死ではなく、それは不適切ではないという考え方はあって良い。それは一つの価値観として認められて良いだろうと思う。

もともと人間は一人で旅立っていくのが本来の姿なのかもしれない。一人でどこにいても死ぬことができるのが、命ある者の姿なのかも知らない。まして医療機関や介護施設で旅立つ人が、その瞬間を誰からも看取られずとも、その遺体が何時間も放置されることはないのだから、問題はないともいえるわけだ。しかし同時に思うことは、誰しもが「ひとり死」を受け入れるわけではないということである。そういう人たちの傍らで、手を握って声をかけるために僕たちに何ができるかを考え続けるためにも、医療機関の中でも、介護施設においても、孤独死は存在すると訴え続けたい。そして旅立つ場面の傍らで看取る誰かが存在するということによってしかできないこと、生まれないものがあるのだということも訴え続けたい。

家族などの親しい関係の人が、旅立ちの瞬間を看取ることで生まれる物語がある。そこには旅立つ人の思いや看取る人の思いが、残された方々の胸に深く刻まれる様がある。それを僕たちは命のリレーと呼んでいる。家族が旅立ちの瞬間を看取ることができないケースも多々ある。高齢ご夫妻で、連れ合いの死の瞬間を看取りたいと希望しても、自分の体調がそれを許さないケースもある。その時、その人に替わって施設の職員が旅立ちの瞬間を看取ることができたならば、息を止める瞬間にどんな様子だったのか、最期に発した言葉はないのかを、看取ることができなかった遺族に伝えることができる。そこに居たものにしか伝えられない言葉により、遺族は臨場感をもってその思いを受け取ることが可能になる。そこでも命のリレーは生まれるのだ。想像やフィクションでしかない事実だけが伝えられるものがあるということだ。

90代の夫の死の瞬間を看取ることができなかった80代の妻は、最期の瞬間を看取った職員に、その場面の様子を確認するように問いかけた。「苦しまなかったかい。」・「痛がらなかったかい」・「寂しがっていなかったかい」・・・。安らかに眠るように旅立っていった様子を聴きながら、うなずきながら涙をぬぐった妻は、その時に介護職員から聴いた話を、お通夜の席で家族や親戚に向かって何度も語り聞かせた。その話の内容は、あたかもそこに自分がいるかのようであった。・・・それはきっと意味のあることだろうと思う。

僕達の仕事は、一見無駄と思えることであっても、できることを真摯に続けていくことに意義があるのだろうと思う。そこまで頑張らなくてよいよと言われようが、頑張ることができることは続けていこうと思う。それは、人間の命という最も崇高なものに向かい合うものの責任である。

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