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第88回 終末期の「生きる」を支えるために何が必要なのかを問う

2018/12/10

鹿児島県鹿屋市の住宅型有料老人ホームで、10月から11月半ばにかけて入居者6人が相次いで死亡していたことが11月21日に明らかになった。さらに県などが立ち入り検査した11月16日にも、別の入居女性1人が死亡していたことも分かった。これにより極めて短い期間で7人もの高齢者が死亡したことになるわけである。

この施設では8〜9月に介護職員8人全員が退職し、夜間は施設長がほぼ1人で対応していたという。記者会見したグループ法人の総括(医師)と施設長は、「末期がんなど重症者を受け入れてきたので、寿命というしかない」と説明し、「医療は適切で問題ない。」としているが、実際にこの施設で人生の最期の時間を過ごした方のお気持ちはいかばかりだったのだろうか・・・。

報道によると先に死亡が明らかになった6人については、ほとんどが点滴を受け寝たきりの状態で、自ら食事を取ることができなかったという。介護職員がすべて退職した施設で、そうした状態の人に対して、満足に食事介助さえできない状態であったとしたら、急激に体力は衰え健康状態は悪化しただろう。それは寿命を縮める結果としか言えず、本来の寿命とは言えないのではないか?寝たきりの重症者だからそれは問題ないと言えるのだろうか・・・それは違うと思う。さらに恐ろしいことには、介護職員が退職後に、褥瘡ができた入居者が増えたと報道されており、実際に鹿屋市が立ち入り検査を行った際に、入居者3人に褥瘡があるのを確認しており、さらに口腔内の不衛生な状態と、室内の清掃が不十分であることも確認されているという。

人は死を迎える瞬間まで生きているのだ。死を迎える何日かの間に、苦しみ、悲しみ、寂しがらせないように寄り添うのが看取り介護だ。しかるに介護の存在しないこの施設では、最期を迎えるまでの間、不衛生な環境で、満足に体位交換や清潔支援も行われていなかったと思われる。垢と糞尿にまみれて最期の時を誰にも看取られずに死んでいった人がいたとしたら、それは極めて悲惨な死に方でしかない。

命に深くかかわる医師や介護施設の長が、この状態を問題ないと、うそぶく気持ちが理解できない。それは人として許されない態度ではないかとさえ思う。今後検査結果を踏まえた行政指導があり、それによりこの施設の運営体質が改善されることを期待する声があるが、介護保険制度上の指定施設ではない「住宅型有料老人ホーム」については、「有料老人ホーム設置運営標準指導指針」(平成 14年7月18日付 老発第 0718003 号厚生労働 省老健局長通知)に基づいた指導を実施しているに過ぎず罰則もない。実質それは勧告レベルにとどまり、あの上から目線の記者会見を行ったツートップが、そのことで恐れ入るとは思えない。改善は期待薄だろう。

そんなことを考えながら思い出したことがある。それは僕がとある施設を見学したときのことだ。その際に見学施設の説明をしてくださった職員の方が、「この方が今、看取り介護の最中です。」と示された方の表情を見ると、苦し気に目をつぶっていた。ベッド回りも整理・整頓がされておらず、日中もカーテンが閉ざされた暗い個室で、一人寂しくベッドに寝かされていた。そういう人が看取り介護を受けていると説明されると、何かが違うと感じてしまう。安静が必要とされる人であったとしても、看取り介護対象者の周囲には人間関係が存在し、人の心のぬくもりが感じられなければならない。一人寂しい状態が安静や安楽ではないのだ。整理整頓された清潔な環境や、爽やかな空気の流れは当然保証されなければならない。よどんだ空気の中で、整理整頓のない部屋で放置され、いつの間にか息を止める死であったとしても、「看取り介護加算」は算定できるが、それは看取り介護やターミナルケアとは言わないのだ。

看取り介護とは「終末期だから何も対応しない」・「高齢者だから対応の必要はない」という考え方を徹底的に排除したうえで、なおかつ延命のための医療対応が必要ではない時期と判断して必要な介護を行うことを言う。そこでは身体介護は決しておざなりにできないのである。看取り介護であるからこそ安心と安楽のための介護には気を遣わねばならず、特に清潔支援や安楽の環境を作り出す支援は必要不可欠である。そのための医療・看護サービスも当然不可欠であり、看取り介護に移行したからといって、医師や看護師の対応や処置が皆無になるわけではない。看取り介護期は、体力や免疫力の低下が想定される時期であるから、感染症にかかるリスクも高い。感染症にかかれば対象者の「苦しみ」が増幅するのだから、感染症を防ぐ清潔支援は最も必要とされるべきであるし、清拭は毎日複数回行うのが「安楽支援」である。看取り期であるからといって「体力が弱って入浴できない」と考えることも間違いで、身体状態を正確に把握し、バイタルが安定しておれば、そのタイミングをはかって、看取り介護期間中に浴槽に浸かって入浴することも可能である。それを望む方も多いのだ。

食事摂取も徐々に困難となり、やがて禁食という状態になる。しかしそうなった後も最期の瞬間まで「好きなもの」を口にする機会を奪わぬよう、その可能性を常に考慮して対応されるべきである。栄養補給としての食事はできなくとも、味わう愉しみをすべて奪ってよいことにはならないのだ。その準備は怠りなくされるべきである。そんなことができていない「放置死」や「偽物の看取り介護」が存在する現状を少しでも改善しないと、その負の遺産は自分や自分の愛する子や孫に降りかかってくる問題となるのかもしれない。そうしないためにも全国で「生きるを支える終末期支援」についての講演活動は、まだまだ続けていかねばならないと思った。

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