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第112回 奪われる人々に向ける視線が、その人の人格につながる

2021/02/22

自分のことは自分で決められるのは、至極当たり前でのことである。しかし、社会の規範に外れたことまで、なんでも自分で決めた通りにできるということにはならない。個人の権利とは、他者の権利を尊重する義務を伴うものである。人の自由はそれ自体が目的ではなく、幸福な暮らしを手に入れる手段なのである。

自己決定という行為も、道徳的な悪を選んで行為することを許しているわけではないし、コンプライアンスとしての制限も生じる。何より、被援助者自身の能力を超えてまで自己決定を強いるべきではないとされており、あらゆる手立てを講じても自己決定ができない人については、援助者が彼らに代わってニーズを表明し方法を選択するという、意思決定を代弁することによって、利用者の基本的人権を守ろうとすることが優先されるのである。

この世の中は、自立できない人も共生できるからこそ住みよくなるのだ。しかし、共生社会とは、人を思いやることなしに成立しないのも事実だ。人の足を引っ張ろうとしたり、誰かを絶望の淵に追い込もうとしたら、共に生きることなんてできっこないのである。奪いあう社会に、「共生」は存在しなくなる。人の哀しみに目をふさぐことも共生を阻害する大きな要因だ。誰かの憤りの声を、無視することも共に生きることを阻害する行為につながる。

今、巷では1年を超えるコロナ禍で、様々な制限が生じている。人の命を護るという意味で、それは必要不可欠な制限であると思うし、そのこと自体を否定することは出来ない。社会全体が様々な我慢を強いられながらも、それに耐えてコロナ禍を打破しようとすることは、人間の英知が問われているという意味であり、その中で自由を一時的に制限された状態を耐え忍ぶというのは、この時代に生きる人間の義務であるだけではなく、それはこの時代に生きる全ての人々の英知が、問われているということだ。こうした状況の中で、介護施設やその他の居住系施設では、感染予防という大義名分を持って、利用者の自由の一部を制限しているわけである。それは仕方ないし、やむを得ないことであるかもしれない・・・。

だからと言って、人の権利や自由を自分の意のままに奪う権利を、施設経営者や管理者・管理職が持っているなどと勘違いしないでほしい。やむにやまれぬ状況の中で、心苦しいお願いを、聞いてもらっているのだと考えてほしい。神のごとく、何でも決めることができると勘違いしたり、人の自由を制限して権利さえ奪い取ることに、何の心苦しさを感じない人は、それだけで周囲に闇をつくっているのだ。見えない涙を見逃しているだけではなく、見える涙さえも、目をふさいで見ない状態になっているということだ。制限を強いる必要がある状況の中で、制限を受けている人に、どれだけ優しいまなざしを、注ぐことができるのかが問題である。そこでは人類の英知が問われるとともに、己の人格が問われるということを心してほしい。

愛情に欠けた制限は、人として許されないと思ってほしい。人から何かを奪わねばならないときこそ、大きな愛で包み込む気持ちを忘れないでほしい。そのことは、決して難しいことではなく、特別な知識や技術がいることでもなく、気持ちさえ持てば誰にでもできることだということを忘れないでほしい。

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