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第127回 老いる地方の街

2022/10/17

マスメディアを通して「格差社会」というフレーズが聴こえるようになって久しい。そうした格差は、現在進行形であるともいわれている。同時に格差社会で生まれた貧富の差は、自己責任だとバッサリ切り捨てる価値観も幅を利かせている。

そのような社会の中で、政治家や学者は口を揃えて、「日本人がもっと大人になり、国際社会の荒波の中で生き残っていくためには、均一化された社会よりも、自由競争を前提とした社会こそが必要なのだ。」と捲し立てている。そして、これからの時代に生き残っていくために、最も重要なことは「生産性の向上」なのだと、ありとあらゆる場所で声高らかに訴えられている。

それが本当かどうかは知らないが、僕にもはっきりとわかることがある。そういったことを言う連中は、誰も彼もが大都会で暮らしているということだ。東京発の意見でしかない。それらの人にとって、この島国で起こっている変化は、「格差社会の到来」といった程度のものなのだろう。おらが街の代議士も生活の本拠は大都会だから、そんな程度の意識でしかない。選挙が終われば、生活の本拠である東京に帰ってしまい、田舎の選挙区の日常がどう流れているかなんて知る由もなく、都会で起こっていることにしか興味が持てなくなる。

しかし、地方で起こっていることは、都会で起こっていることとまったく違うのだ。そこでは格差が問題なのではない。街全体が疲弊し死にかけていることが問題なのだ。僕の生活圏域で言えば、昭和40年代に16万人を超えていた室蘭市の人口は、すでに8万人を割ってピーク時の半分以下だ。かつての繁華街はゴーストタウンの様相を呈し、商店街は干からびていて、魚屋や肉屋や乾物屋や洋品店だったところが、今ではシャッターの連なりと化している。そこは昼頃にはわずかな人通りがあるだけで、午前中は通行人さえほとんどいない。

そんな街で、住民は老いてゆくのだ。そこに大都会の論理や方法論が通用するとでも思っているのか。かつて働き盛りの時期に、オイルショックを経験した世代は、今、自らの「老いるショック」と向かい合って、老いる街で生き続けなければならない。都会よりもインフラが整備されていない田舎で、老いるということは、移動手段がない場所で、生活必需品の確保にも奔走せねばならないことを意味し、そこに都会と同様の物価高などの問題が、上乗せされていくのだ。そういう場所からは、若者の姿も減っていく。介護人材不足というが、地方都市は介護人材消滅が現実化しつつあるのだ。

こうした問題に向き合って、その問題の解決にあたるのが地域包括ケアシステムだというが、そんなシステムがどこに存在するというのだ。それは手段を地域に丸投げして、「やっているふり行政」と、「とんでもローカルルール」を数多く創り出して終わりではないのか・・・。

そんなふうに日本の街は老い、システムは老衰死していくのである。
日本社会は、処方箋の出せない自然死社会に入っているかのようである。・・・だから多くの人々が、ネット社会という仮想現実の中で、妄想を大きくしていくしか、生きる術のない状態に陥るのかもしれない。

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