HOME > U+(ユープラス) > masaの介護・福祉よもやま話 > 第147回 サイレント・ブレス
2024/08/05
静けさに満ちた日常の中で、穏やかな終末期を迎えることをイメージした言葉が、「サイレント・ブレス」です。それは自分や誰かの人生の最終章を、大切にするという意味です。
人生の最終章とは、死ぬために存在するのではありません。ひとりの人間として、最期まで自分らしく生きるために存在する時間を、人生の最終章と呼ぶのです。だからこそ「静けさ」というのは、寂しく孤独な様(さま)を表すものではないのです。音もない暗闇で、過ごすことではないという理解が必要です・・・。
医療機関や介護保険施設等で、終末期支援と称して、真っ昼間に遮光カーテンを引いて、訪れる人の姿も稀な状態で、暗く寂しくした部屋を、創り出してはなりません・・・傍らに誰もいない状態で、ひっそりと息を引き取らせることが、サイレント・ブレスではないのです。静けさとは、心模様を表しているのです。心が静かな状態・・・、心が穏やかな様を云うのです。
人が不治の病に直面した時、様々な心模様が生じます。最初は自分が死ぬなんて嘘だと否定し、次に自分がなぜ死ななければならないのかと怒り、さらに死なずに済むために、何かできないかと取引を試み、やがて打ちのめされて、何もできなくなる段階を経て、やがて死を受け入れるというプロセスを、「否認」・「怒り」・「取引」・「抑うつ」・「受容」という言葉で表します。
しかし、うまくこの段階を経るケースは、そんなに多くはありません。「怒り」と「抑うつ」が、繰り返されるケースも少なくないのです・・・、死は誰にとっても未経験で得体のしれないものだから、それは仕方がないことでしょう。死ぬことに対する恐怖や不安に、精神を病んでしまったまま、息を止めてしまう人がいる、という現実とも向かい合わねばならないのが、看取り介護なのです。
だからこそ、私たちは考え続けなければなりません。死に向かい合う人に、どのように寄り添って、どのような形で手を差し伸べて、心穏やかに息を止める最期の瞬間まで、生きることのお手伝いができるのかを考えながら、今そこで、人生の最終章を生きる人に、最善と思える方法で寄り添う必要があるのです。
例えば胃婁・・・、誤嚥を防ぐために胃婁を造って、直接胃に栄養剤を流せば良いと考えます・・・しかし、人の体は理屈通りに動いてくれません。胃に流動食が入ると、消化器系全体の反射が起き、自然に分泌される唾液で誤嚥が起き、誤嚥性肺炎を繰り返すことになります。そうなったら胃婁は、旅立つ時間をいたずらに引き延ばして、その分終末期の人を苦しめるツールにしか過ぎなくなります・・・誰かが、そのような胃婁からの栄養補給を、やめるという決断をしてあげなければなりません。
点滴も同じことです。緩和治療としての水分補給が、必要な時期には点滴が有効です。しかし、それにも限界があるのです。その時期を過ぎた点滴は、喀痰吸引が必要になる痰を製造するだけで、手足をむくませて、人を苦しめるものにしかなりません・・・、目の充血や手足のむくみといった状態に注意し、お別れの時期を見極める終末期支援が、求められることを理解せねばなりません。それは命をあきらめることではないのです。自然死という安らかな旅立ちを、邪魔しないことなのです。点滴をやめた体は、一層軽くなります。死期は早まるでしょう。そのかわり不快感も消え、体は楽になっているのです・・・その時、表情を見て気づきます。和らいでいると・・・。
私たちは、この世で大きなことはできません。でも小さなことを、最大限の愛をこめて行うことはできるはずです。終末期を迎えた人は、意識が薄れて、反応が少しずつ鈍くなる様子が見て取れます。しかし、聴覚や嗅覚は十分機能していることも多いのです。話しかけたり、素敵なにおいのお花を飾ったりすることは、決して無駄ではないと思います。終末期を迎えた人も、ささやかな望みは必要なのです。この世から旅立つ前に、やりたいことをして、食べたいものを口にする・・・、残された機能を使ってできるわがままを、実現させてあげたいものです。
死とは人生の終焉ではありますが、決して敗北ではありません。それは自然の摂理であり、人としてこの世に生を受けた以上、避けて通れないものである。そこに至る過程が、逝く人にとって、どのようにすることが最善なのかを考えるヒントが、サイレント・ブレスの捉え方なのかもしれません。愛をこめて・・・。