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第157回 多死社会においての看取り介護

2025/09/22

国の医療・介護政策が、どのような方向に向けて舵取りされているのかを見つめると、今見えてくることとは、2040年問題と多死社会に向けた政策誘導である。

2040年問題とは、高齢者人口がピークに達するであろうと想定されることに伴い(※実際のピークは、2043年ごろと予測されている)、要介護者数もピークに達し、さらに85歳以上の高齢者数がピークに達するために、状態急変ケースが増える中で、少子化が止まらずに生産年齢人口がさらに減るために、財源と人材はさらに厳しくなるという問題である。そうした中で我が国は年間死者数が増え、その数は2023年時点で既に157万6016人となり、死者数・増加数共に戦後最多となった。このように増え続ける死者数に対応して、医療機関がその死に場所になるとすれば、莫大な財源が必要になるという問題がある。その為、国は死ぬためだけに入院しなくてよい仕組みを、医療制度改革・介護制度改革の両者で実現しようとしている。

増え続ける老衰死に対応するため、2024年度の報酬改定では、居宅介護支援費のターミナルマネジメント加算について、末期がんの利用者に特定されていた縛りを外して、疾患を特定せず算定できるようにしたのも、その対策の一つである。今後も介護保険の居宅サービス・施設サービス両面で、看取り介護・ターミナルケアを実施する方向で、加算新設・強化・拡大が図られていくことになる。そのような中で医療機関は、急性期医療を中心としたサービスを行うように、政策誘導されており、かつて老人病院と呼ばれた長期入院できる医療機関は、その体制では経営が立ち行かなくなるために、在宅療養を支援する医療機関(※いわゆる在宅療養支援病院等)に変換を促されている。さらに今年に入って政府・与党は、病床数削減方針を打ち出しており、一定条件下でベッド数を削減した医療機関に、補助金を出すなどして、その政策を進めている。つまり死者数が増える中で、医療機関のベッドは大幅に減っていくのだ。そこに対応した介護支援が求められており、そこには介護事業経営上の大きなビジネスチャンスが存在するということだ。

また、財源と人材が不足する中で、要介護者が増える状況を鑑みた場合、国は介護事業の規模拡大を図っていくことは確実だ。離島以外の小規模特養の単価をカットし、大規模通所リハビリが、リハ職を一定数以上配置するなどの要件をクリアすれば、規模別報酬の減算を受けなくて済むようにした、前回介護報酬改定の波は、2027年度介護報酬改定にも引き継がれ、事業規模を拡大・多角化することが、安定した介護事業経営には不可欠になる。

多死社会対応と経営規模の拡大化誘導・・・この二つの視点を鑑みれば、おのずと見えてくるものがある。それは今後の介護事業経営では、ホスピス経営が不可欠であるということだ。(※ホスピスとは、終末期を迎えた人が、最期を快適に過ごすための包括的なケアを、提供する施設もしくはサービスを指す言葉。)

介護事業を経営するにあたり、ホスピスを機能として必ず持ちあわせたうえで、事業拡大と多角経営化を図ることが、経営戦略として必要となるということだ。これをしないと時代の波に乗り遅れて、介護業界で生き残ることは難しくなるのだ。だからこそ従業員に対しては、看取り介護・ターミナルケアのスキルを獲得できる教育を、システム化していく必要がある。

人間は致死率100%であり、死は避けて通れないものである。その死に際まで必要な介護を続け看取ることは、生きることを支えることであり、看取り介護は、日常介護の延長線上に必ず必要となる介護であることを、伝えなければならない。

そうであるがゆえに、施設サービスとか、居宅サービスとかいう区分に関係なく、全ての介護関係者が、介護サービス利用者の死に際に、関りを持たざるを得なくなり、その中には看取り介護のチームメンバーとして、関わるというケースも増えていくことになる。よって、すべての介護従事者が、「おくりびと」としての役割を、果たさねばならない。看取り介護の正しい知識と、援助技術を得る必要があるのだ。だがそれは決して、医療のスキルを介護従事者が、獲得していく必要があるわけではなく、介護の知識・技術として獲得していくものである。なぜなら看取り介護とは、「死」にターゲットを当てて考える問題ではなく、「死」を意識しながらも、そこに至る過程である「生」を支える介護であり、日常介護の延長線上に存在する、「終末期という限られた時間」を意識した介護であるからだ。

そこで、介護従事者が行わねばならないことは、特別な介護ではなく、死を意識したとしても日常的な介護である。そこでは、死を意識するからこそ、看取り介護対象者と、様々な関係者との最期のエピソードづくりを、支援することが可能となる。その支援機能を大切にしなければならない。遠く離れた場所に住み、何年も逢っていなかった子や孫や親類が、お別れの時間を過ごすために、看取り介護対象者がいる場所に足を運び、最期のエピソードを刻むことができるのである。そこで与えられた別れを云えるチャンスは、天からの贈り物に他ならないと思う。

勿論、看取り介護対象者の中には、自分が終末期であると、伝えられていない人もいるだろう。その際に、看取る人々だけが、看取り介護対象者の命の期限を知っておくことは意味があることだ。その場合には、声に出さずに心の中で、そっとお別れの声をかけよう。そっと心の中で「この世で逢えてありがとう。」とつぶやこう。その思いはきっと何らかの形で伝わると信じよう。そんなふうに、看取り介護は、人としてこの世に生きる全ての人に、愛を注ぐことのできる介護であり、介護の使命を果たすことができる介護であると云えるのである。そうした看取り介護を、するとか・しないとか、出来るとか・出来ないというのはどうかしている。

看取り介護対象者を、ただただ安静にさせて、その死を看取るというイメージしか抱いていない人がいる。そのために、看取り介護対象者を、遮光カーテンが閉じられたままの部屋で、日中でも陽を入れず真っ暗な状態にして、訪室者もほとんどない状態で、孤独のうちに旅立たせることが、看取り介護だとされている人もいる。それは看取り介護ではなく、孤独死への誘導に他ならない。それは介護とは言わない。

そもそも看取り介護とは、死にゆくための支援行為ではなく、死の瞬間まで生きることを支える支援であるのだ。そこを勘違いしてはならない。命が尽きる瞬間まで、人としての尊厳を護り、命の炎を燃やし続けることを愛しく思い、安心と安楽のうちに旅立つために、手を差し出すのが看取り介護である。そうした行為に悲壮感など存在しない。

限りある命が尽きようとしている人の最期の瞬間まで、真摯に寄り添うことができれば、介護という職業の使命と誇りを、感じ続けられるだろう。そうした行為が看取り介護なのである。

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